早いものである。ホイットニー・ヒューストンがこの世を去って10年が経つ。

ニューヨークの不動産王ドナルド・トランプがアメリカ合衆国大統領になったことを、ホイットニーは知らない。#MeTooやBLMのような社会運動が起こったことも、新型コロナウイルス感染症の爆発的流行も、ロシア・ウクライナ戦争も彼女は知らない。マイケル・ジャクソンが亡くなったことは知っていた。だがプリンスやアレサ・フランクリンが亡くなることは知らぬまま逝ってしまった。きっと天国で再会しただろうけれど。

10年とはそれほどの時間である。しかも彼女の晩年の音楽的成果はさびしいものだったから、全盛期とされる1990年代からだとずいぶん長い歳月が過ぎたことになる。事実、新しい音楽スターにホイットニーの直接的な影響を見出すことは難しくなりつつある。

彼女の死後、いくつかのドキュメンタリーが作られた。だが当然ながら生前のすべての出来事が映像に収められていたわけではないので、ホイットニーの生涯の全容を知りたい熱心なファンほど物足りなさを感じたかもしれない。それゆえに劇映画が作られる余地があり、その登場が熱く望まれてもいた。

最も大きな問題は、その映画は、誰によって、どう作られるか、だった。

本作『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』の監督がケイシー・レモンズと聞いて、期待と喜びに震えた人はどれほどいるだろうか。彼女はスパイク・リーの伝説的名作『スクール・デイズ』で印象的な演技をみせた俳優であり、フォレスト・ウィテカーを主演に据え、ジェニファー・ハドソンとメアリー・J・ブライジの2大ディーバを主要キャストに迎えたミュージカル映画『クリスマスの贈り物』の監督でもある。ウィテカーはホイットニーの2作目の主演映画『ため息つかせて』を監督したことでも知られるが、そこでホイットニーとダブル主演だったアンジェラ・バセットが、『クリスマスの贈り物』では牧師役ウィテカーの妻を演じている。こうしたディープな絡みがあってのレモンズ監督、という経緯は知っておいて損はない。しかも脚本には『ボヘミアン・ラプソディ』のアンソニー・マクカーテン、さらに製作にはホイットニーの恩人クライヴ・デイヴィスが名を連ねている。期待しないほうが無理というものだ。

日本でもホイットニー・ヒューストンの名前はよく知られている。だが、その人生はどうか。一般メディアにおける報道では、ホイットニーの芸能キャリアの頂点を1992年の初主演映画『ボディガード』と位置づけ、同作の主題歌として世界的大ヒットを記録した“I Will Always Love You(オールウェイズ・ラヴ・ユー)”にふれて一丁上がり、というパターンがほとんどだ。あとは悪童イメージでR&B界の超人気者だったボビー・ブラウンとの結婚と別離を言い添えるくらいか。

もちろん、ホイットニーはそれだけの人ではない。本作でも『ボディガード』はキャリアのクライマックスとして配置されるが、主眼はむしろその前と後にある。製作者たちがこの伝記映画をどうデザインしたかったかは明白だ。つねに誰かの愛を求めてきたタイトルに倣っていえば、人生という名のダンスのパートナーを求めつづけてきた「人間ホイットニー」を描ききることだ。

何より大きな意義があるのは、彼女のパートナーと呼び得る人物はボビー・ブラウンだけではなかったことを、はっきり打ち出しているところ。10代で出会ったソウルメイトのロビン・クロフォード。そして、ホイットニーにデビューのチャンスを与え、キャリアにずっと関わってきたアメリカ音楽業界きっての大立者クライヴ・デイヴィス。誤解を恐れずに言えば、われわれが現在「ホイットニー・ヒューストンの音楽」と認識しているものは、「歌い手ホイットニー + クライヴP」のコラボレーションであることがよくわかる。本作のプロデューサーでもあるクライヴは、映画全編を通して「音楽は誰のものか」に加え「音楽には何ができるか」を観る者に問いかけたかったのではないか。

ぼくは幸いにもホイットニー本人をはじめ、ボビー・ブラウン、愛娘クリスティーナ、さらにクライヴにも会っているが、本人たちの口調や仕草を俳優陣が見事に再現するのに驚いてしまった。これぞ劇映画の醍醐味だろう。ホイットニー役のナオミ・アッキーの熱演はもちろんだが、クライヴを演じるスタンリー・トゥッチの高い再現力にも舌を巻く。『ムーンライト』で少年時代の主人公を演じたアシュトン・サンダースがボビー・ブラウン役というのも、スパイク・リー以降のブラックムービー好きにはたまらないキャスティングだ。

ホイットニー・ヒューストンは、本名ホイットニー・エリザベス・ヒューストン。1963年8月9日、ニューヨークのお隣ニュージャージー州最大の都市ニューアークに生まれた。この時代に同地区でアフリカンアメリカンが生きていくのは相当タフだったはずだ。67年にニューアークで暴動が起こると、一家は州内のイーストオレンジに転居する。

エルヴィス・プレスリーやアレサ・フランクリンのコーラス隊として知られた女性ボーカルグループ、スウィート・インスピレーションズのシシー・ヒューストンを母にもち、従姉には国民的スター歌手のディオンヌ・ワーウィックやその妹ディーディー・ワーウィックがいる。レズビアンを公言していたディーディーが幼い頃のホイットニーに性的虐待をくり返していた、というのはホイットニーの死後に流布された情報だが、その時点でディーディーも故人だったため真偽ははっきりとしない。

ハンサムだが高圧的な夫ジョン・ヒューストンと別れたシシーは養育権を得て、子どもたちに歌を教える。なかでもホイットニーは教会の聖歌隊で早々と才能を開花させ、11歳ですでに花形のソリストの地位を獲得していた。母のショーやレコーディングに同行して歌の仕事を少しずつ増やしていくのと並行して、恵まれた容姿をいかしてモデル業にも進出するなど、10代のホイットニーの前途は洋々だった。

本作では、デビュー前のシーンでルーサー・ヴァンドロスの“Bad Boy / Having A Party”やチャカ・カーンの“Papillon”が流れる。“Papillon”をホイットニーが歌う場面もあるが、実際に同曲が収録されたチャカの1980年発表のアルバム『Naughty(じゃじゃ馬ならし)』には、母シシーやルーサー・ヴァンドロス(ホイットニーをプロデュースしたこともある)と一緒に高校生のホイットニーがコーラス参加している。

ホイットニーの類稀な歌声とスター性に満ちた容姿は大きな評判を呼び、音楽業界の有名人ジェリー・グリフィスの紹介を経てクライヴ・デイヴィスに届く。シシーのなじみのライブレストラン「スウィートウォーターズ」に出演しているところがクライヴの目にとまり、彼のレコード会社アリスタと契約する。このエピソードは本作でも印象深いシーンになっているが、まさにそこからホイットニーとクライヴの二人三脚の協働は始まったのである。目指したのは、ジャンルや人種を超越した〈グレイテストソング〉だった。

クライヴ・デイヴィスは1932年4月4日、ニューヨーク市ブルックリン生まれ。ハーバード大学ロースクール出身の弁護士で、当初は法律顧問的な立場でコロムビア(現ソニー)レコードに入社。だが「黄金の耳」の主として実力を発揮しはじめ、67年には社長となる。73年に解任されるが、74年にはベル・レコードのトップに就きアリスタと改名すると、大成功を収める。2000年にはJレコードを設立。その長いキャリアの中でボブ・ディラン、バーブラ・ストライサンド、サンタナ、アリシア・キーズ、マルーン5といったアーティストやプロジェクトをヒットに導いてきた。そんな彼が、自分の音楽人生の中で特別な3人として名前を挙げるのが、ジャニス・ジョプリン、ブルース・スプリングスティーン、そしてホイットニー・ヒューストンである。

ホイットニーのテレビ初登場は、アリスタと契約してまもない1983年4月にクライヴ・デイヴィスに伴われて出演した「マーヴ・グリフィン・ショー」。そこで歌った“Home”(ミュージカル『ザ・ウィズ』の有名曲)は、すでに完成品と言って差しつかえない圧巻のパフォーマンスであり、クライヴは歌唱前から自信満々の表情をみせていた。

先述したスウィートウォーターズでの邂逅の際、契約の決定打となったのは“Greatest Love Of All”のカバー。これはもともと名作曲家マイケル・マッサーがモハメド・アリの伝記映画『アリ/ザ・グレーテスト』のために作り、1977年にジョージ・ベンソンのボーカルで世に出たもの。主にアフリカンアメリカン向けのソウルチャートで2位のヒットを記録したとはいえ、全米チャートでは24位どまりだった。ところが、1986年にホイットニー・バージョンがデビュー・アルバム『そよ風の贈りもの』からシングルカットされると、彼女にとって3曲目の全米ナンバーワンとなる。ホイットニーの歌声によって、グレイトソングが〈グレイテストソング〉に変態したのだった。

じつはホイットニーの最初のナンバーワン・ヒット“Saving All My Love For You(すべてをあなたに)”もカバー曲である。だがマリリン・マックー&ビリー・デイヴィスJr.によるオリジナルをご存じの方は、ほとんどいないのではないか。無名といってよいほどの曲だ。クライヴの選曲眼とホイットニーの歌声の化学反応は、まるで錬金術だった。

初期のホイットニーは、歌やふるまいに「黒人らしさ(The Blackness)」が足りないとして、同胞たちから厳しい批判に晒されてきた。そのたびに彼女は完成度の高いライブ・パフォーマンスを見せつけることで批判を鎮静化してきた。ホイットニーの生歌はそれほど圧倒的だった。

証左として筆頭に挙げねばならないのは、1991年1月27日にフロリダ州タンパで開催された第25回スーパーボウルにおけるアメリカ国歌「星条旗」独唱。スーパーボウルがアメリカ最大のスポーツイベントであることは論を俟たないが、この年は特別だった。なにしろ、湾岸戦争でアメリカ軍部隊を中心とする多国籍軍が空爆を始めて10日後の開催だったのである。ここでホイットニーは神がかったパフォーマンスをみせた(歌唱自体は事前に録音していた)。歌声には、いびつに膨張した愛国心を整え、さらに拡張させるだけの効力があった。テレビ中継の直後から、全米のラジオ局にはホイットニー・バージョンの「星条旗」のリクエストが殺到、当座の対応としてDJたちはテレビ中継を録音したものを流したという嘘のような実話もある。アリスタはスーパーボウルから2週間後の2月12日には商品化して緊急リリースという離れ業をみせ、セールスは全米ナンバーワンを記録する。その後2001年に世界同時多発テロが起こったとき、このシングルは10年ぶりに再リリースされて全米6位のヒットとなった。

湾岸戦争は同年2月28日に終結する。多国籍軍の勝利だった。そして3月31日、米海軍ノーフォーク航空基地で帰還兵とその家族を対象にホイットニーのコンサートが開かれる。その模様を生中継したアメリカの衛星・ケーブルテレビ放送局HBOの番組『Welcome Home Heroes with Whitney Houston』は、同局の歴代最高視聴率を獲得した。このコンサートのオープニングも「星条旗」である。ホイットニーの歌声は国威発揚に著しく向いていた。ハイライトは、リンダ・クリフォードやシスター・スレッジが歌い継いだ王道ラブバラードをパワフルにカバーした“All The Man That I Need”。同曲が2月から3月にかけて全米ナンバーワンを記録した直後でもあり、戦勝ムードの凄まじい高揚感は恐ろしいほど。その映像を観れば、当時のホイットニーが天下無敵の「アメリカの恋人」であったことが体感できる。

1994年2月7日の第21回アメリカン・ミュージック・アワードでは、ホイットニーは最多の8部門で候補となり、うち7部門を受賞した。授賞式で彼女は新旧3曲ものメドレーを歌うようオファーされる。『ポーギーとベス』から“I Loves You, Porgy”、『ドリームガールズ』から“And I Am Telling You I'm Not Going”、そして『ボディガード』から“I Have Nothing”。共通項はアフリカンアメリカンの女性が主役の芝居や映画の楽曲ということ。難題に相当ナーバスになったホイットニーは、バンドリーダーのリッキー・マイナーとかなり激しく衝突したが、本番では凄まじいクオリティーの歌唱を披露することに成功。このときのパフォーマンスは本作でも大きな見せ場となっている。

同年11月の南アフリカ共和国でのコンサートも、ホイットニーの音楽史を語るうえで欠かすことができない。5月に同国大統領に就任したネルソン・マンデラからの直接のオファーで実現した3夜の公演は、アパルトヘイトの撤廃を祝う意味合いが強いもの。6年前の88年6月にロンドンのウェンブリー・アリーナで開催された、当時まだ獄中にあったマンデラの釈放を求める「フリー・マンデラ」ライブに、ホイットニーはスティーヴィー・ワンダーやスティング、エリック・クラプトン等と一緒に出演していたのだ。

異様な興奮のなかで始まったホイットニーのコンサートは、アパルトヘイト廃止後初めてとなる外国人スターの大規模公演だった。ホイットニーでなければならなかった。ハイライトはもちろん、92年から93年にかけて世界中で爆発的ヒットを記録した“I Will Always Love You(オールウェイズ・ラヴ・ユー)”。ちなみにこの曲も大物カントリー・シンガー、ドリー・パートンの自作ヒットのカバー。ホイットニー一世一代の名唱だが、俯瞰の立場で『ボディガード』のサウンドトラックを指揮したクライヴ・デイヴィスの存在もまた必要不可欠であった。いまではそのことを誰もが認めざるを得ないだろう。