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  • 1980年代から90年代を全速力で駆け抜けたディーヴァ、ホイットニー・ヒューストン。彼女ほど、実像とメディアを通して知られるスター像との間に大きな川がある人物もなかなかいない。この映画はそんな実像とスター像の両方を描いている稀有な作品になっている。

    実は筆者は、アリスタから全米デビューする1985年2月より前から注目していて、彼女について書いていた。1984年7月、ニューヨークのプロデューサー、カシーフが新しく郊外に買った豪邸に招かれ遊びに行くと、うら若き女性がそこにいた。見た瞬間、「あっ、ホイットニーだ」とわかった。「日本から来た」と自己紹介すると、なんと彼女は「あら、私、日本に行ったことある」と言うではないか。よくよく聞くと母のシシーがヤマハの第10回世界歌謡祭(ワールド・ポピュラー・ソング・フェスティヴァル)に出場した1979年11月、母のバックコーラス役で武道館のステージにあがっていたのだ。

    約半年後、1985年2月、満を持してアルバム・デビュー。約1年をかけてこれは大ベストセラーになり、同年6月にはジェフリー・オズボーンの前座として全米を周り、そのツアーも初日ピッツバーグで見た。そこで歌われた「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」の素晴らしさは筆者が生涯見たあらゆる歌手の最高の歌唱のひとつとして記憶に残っている。以後は、日本でもレコードが大ブレイクし来日公演もほぼ毎回満員になった。

    1989年9月、新たに創刊する雑誌のために正式にインタヴューを行うことができた。この時は彼女本人の他、母シシー、父ジョンにもインタヴューできた。そのときのホイットニーはすっかりスーパースターになっていた。さらに、1992年の映画『ボディガード』が大ヒットしてからは、完全に雲の上のような存在になった。

    1986年11月の初来日公演以降は毎回ツアー中最低一回はライヴに足を運んだ。1994年アメリカで出版されたジェフリー・ボーマンが書いた初のホイットニー・ヒューストン伝記本「ディーヴァ ホイットニー・ヒューストン物語」を1996年、日本語に翻訳し出版した。この時点で、初期の頃のストーリーが描かれており、今回の映画も大筋はその流れに沿っているが、伝記本に描かれていなかった1994年以降の物語はかなり衝撃的だ。

    結果的に最後の来日となる2010年2月のライヴでは、彼女はまったく声がでていなかった。このときのツアーはヨーロッパやオーストラリアで酷評され、ツアーも途中で中止となってしまったほどだ。個人的にもデビュー直後初めて彼女のライヴを見た感動があっただけに、本当に残念でしかたがなかった。そして、2012年2月11日(日本時間では12日)全世界に衝撃のニューズが伝わった。48歳の若さだった。

    本作は、ホイットニーの十代後半から48歳の若さで人生の幕を閉じるまでを比較的時系列に沿って描く。なにより、ホイットニー役の主演ナオミ・アッキーがシンガーとして風格を持ちスーパースターになっていくにつれ、ホイットニーに見えてくるところが映画のマジックだ。

    そして、本作の一番の見どころは、これまでよく知られているスーパースターの華やかな表側だけでなく、あまり知られてなかった裏側が赤裸々に描かれていることだ。

    たとえば、ホイットニーと長年親友として知られるロビン・クロフォードとの出会い、彼女との友情、確執。育ての親であり、彼女を自身のレコード会社アリスタに迎えるクライヴ・デイヴィスが、どれほどホイットニーを大事に育ててきたか。また、ホイットニーと父親との金銭面でのトラブル、母親が彼女にとっては絶対的存在であったことなども描かれ、物語展開に引き込まれてしまう。

    本作のプロデューサーに、クライヴ・デイヴィスが名を連ねていることもあり、クライヴの描き方はあたかも助演男優のようでもある。そして、クライヴを演じるスタンリー・トゥッチ(本来の発音はトゥーチー)が実にクライヴそっくりで、いかにも言いそうなセリフを語り、切れ者のレコード・マンをうまく演じている。特にクライヴが、どんどんとドラッグにはまっていくホイットニーをニューヨーク郊外の自宅豪邸に招き、リハビリを強く勧めるところなどホイットニーの弱さなども出ていて、ひじょうに感銘を受けるシーンだ。

    本作でも描かれるが、アメリカのアフリカン・アメリカン(黒人)アーティスト、エンタテイナー、あるいはアスリートたちが抱える成功にともなう代償、プレッシャー、悩みなどは我々には到底想像できないほど大きなものだ。そして、一般的にそうしたプレッシャーは白人よりも黒人の方が常に大きい。たとえば、還暦を前にこの世を去るエンタテイナーたちは、そうしたプレッシャーに押しつぶされてしまったという言い方もできる。このホイットニーももちろんだが、マイケル・ジャクソンであれ、プリンスであれ、彼らは常に白人エンタテインメントの世界で闘ってきた。しかも、ホイットニーの場合は、映画でも描かれるが、同胞であるブラックの人たちが集まる「ソウル・トレイン・ミュージック・アワード」の授賞式でさえもブーイングを受け、傷つく。この事件は当時、大変話題になったが、最初の2枚のアルバムの破格の成功が白人層にも受けたことに対して、ホイットニーが「ホワイトニー(白い)」と揶揄されたことに端を発している。これに激怒したクライヴ・デイヴィスは当時、音楽業界誌ビルボードに彼女を擁護する熱いコメンタリーの文章を寄稿したほどだった。この事件を機に、ホイットニーの次のアルバムはより黒い路線を狙うことになり、R&B系プロデューサーとして名をあげていたベイビーフェイス(デモテープで登場)&LAリードにプロデュースを委ねることになる。

    ヒルトン・ホテルのバスタブで朦朧(もうろう)としているときに、彼女の脳裏に思い浮かんだのは、ニュージャージーの教会だったか、あるいは、家族の前で歌っていた幼い頃の自分だったか。超弩級の成功を得たホイットニー・ヒューストンの光と影。しかし、その強烈に感動できるショーストッパーな歌唱、パフォーマンスはレコードに、CDに、そしてこのような映像やホログラムのライヴ・パフォーマンスなどに永遠に残り、伝説となっていく。それがエンタテインメントの歌の美しさだ。

    筆者は1984年7月に会ったまだ女学生のようなういういしさを持ったホイットニーから、初の全米ツアー、数度の来日コンサートや記者会見、ニューヨークのラジオ・シティー・ミュージック・ホールでの圧巻のライヴ、映画『ボディガード』の破格の大ヒット、伝記の翻訳、最後に見た来日公演でのボロボロの姿。衝撃のCNNの速報、生で実況された葬儀の模様……。そのすべてを瞬時に思い出すことができる。しかもその栄枯盛衰をリアルタイムでときに近くで、大半は遠くで目撃してきた。しかし、その彼女は今や遠くに遠くに行ってしまった。ひとりのスーパースターであり、ひとりの弱い人間でもあったホイットニーのそんな物悲しい姿をこの映画は映しだしている。そして多くの人にとって、彼女が“スーパーボウル”で歌った「スター・スパングルド・バナー(星条旗)」の感動が永遠であると同時に、僕にとっては初めて見たステージで聴いた「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」の圧倒的な歌唱と感動も、永遠なのだ。

  • 映画『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』(以下 本作)にて重要な存在として描かれているクライヴ・デイヴィスとは、どんな人物なのか。手短かに言えば、アメリカのポピュラー音楽業界史においてもっとも偉大な業績を築いたひとり、いわば生きる伝説である。デイヴィスは、法曹界からレコード産業に関わっている。1932年4月4日ニューヨークのブルックリン生まれ。28歳で弁護士としてメディア大手CBS系列のコロムビア・レコード(現ソニーミュージック)顧問助手に就き、1967年には社長に任命された。1960年代後半、若者世代の台頭で構造的変化に直面していた音楽業界において、デイヴィスはシーンの主役にロック・アーティストを据えることで大きな変革を成し遂げた。新たな世代の価値観や意識をリアルに表現し、莫大な規模の商業的成果をエンターテイメントの世界にもたらせる才能たち、たとえばジャニス・ジョプリンやシカゴらを発掘し、またブルース・スプリングスティーンやビリー・ジョエルなどをも見出す。社史に残る業績をあげながら1973年に社内抗争に敗れてコロムビアを追われ、新たにアリスタ・レコードを設立すると、バリー・マニロウやベイ・シティ・ローラーズ、レイ・パーカーJr.、エア・サプライらを輩出した。デイヴィスのキャリアの2度目の頂点を決定的にしたのが、ホイットニー・ヒューストンである。出会いのシーンは本作でも描かれている通り。デイヴィスはその瞬間に特別な閃きを得た。

    1980年代にデイヴィスは、グレイトフル・デッドやアレサ・フランクリンらベテラン勢を蘇らせる手腕を発揮した。一方で、母がシシー・ヒューストンで従姉妹がディオンヌ・ワーウィックではあっても、モデルやバック・シンガーの経験だけで歌手としては未知数だった無名の新人の未来にすべてを賭けると決める。その原石はやがて永遠の輝きを放つダイヤモンドになる。イギリス勢が席巻しミュージック・ビデオが隆盛を誇り、ハード・ロックが台頭しヒップホップの本格的胎動が始まる。そんな時代にデイヴィスは、ホイットニーをゴスペルのルーツを土台に卓抜した技量と何よりも豊かな感情表現を持つ唯一無二のヴォーカリストに育て上げた。彼はレーベル経営者であると同時に、アーティストと作品に深く関わる生粋のミュージックマンだった。本作にあるようにカセット・テープなどの形で集められた数千ものアルバム収録候補曲を吟味し、彼女の歌にいかなるサウンドを組み合わせ最良のアレンジと完璧なプロデュースを施すかを決定した。ホイットニー作品の奇跡的な完成度の高さの背景にいたのが、“黄金の耳を持つ男クライヴ・デイヴィス”だった。

    66歳になるとアリスタが大手BMGレコード傘下になるなど状況が変わりレーベル責任者からの退任を求められるが、2000年にはJレコードを興しアリシア・キーズらを売り出している。2008年には、BMGと合併したソニーミュージック(いわば古巣)の幹部に迎えられる。それぞれの立場の変化はあれどデイヴィスとホイットニーの絆にいささかも変わりはなく、後見人として無償の愛情を注いだ。彼を演じたスタンリー・トゥッチの再現度の完璧さはエンド・ロールに登場する実際のデイヴィスの写真で確認できるだろう。彼女が天に還ったのは、2012年2月11日。デイヴィス主催のグラミー関連イベントのためロサンゼルスを訪れた夜だった。デイヴィスの悲しみの深さを、私は到底量り知ることができない。本作のハイライトは、その18年前、1994年2月にアメリカン・ミュージック・アワードにて3曲をメドレーで披露したパフォーマンス・シーンだ。最後に歌われた「アイ・ハヴ・ナッシング」に、特別なメッセージを感じる。“あなたがいなければ、私には何もない”──人生の限られた時間の中でそう思える大切な人と過ごすことの価値、それはかけがえのないものであり、ホイットニー・ヒューストンにとってクライヴ・デイヴィスは、もちろんクライヴにとってホイットニーは、そんな存在だったに違いない。

  • ホイットニー・ヒューストンは、80年代を代表するR&Bシンガーと言われながら、R&Bというジャンルとの向き合い方に悩まされてきたシンガーでもあった。

    彼女がアリスタから自身の名義でデビューした80年代中期といえば、英国勢が全米チャートを賑わす中で、ゴスペルやソウルを出自とする黒人アーティストもジャンルや人種の垣根を越えてヒットを飛ばしていた時代。マイケル・ジャクソン「Thriller」(82年)やプリンス「Purple Rain」(84年)の大ヒットの余韻も続いていた。R&Bの世界ではドラムマシンやシンセサイザーの導入が急速に進み、メカニカルなサウンドとポップな音が主流になっていた。

    そんな時代背景もあったのだろう。ホイットニーが初期に発表した2枚のアルバムも、80年代NYサウンドの旗手だったカシーフやその盟友ララを裏方として起用してはいたが、殊更にR&B的であろうとはしていない。正式デビュー前に先行披露されたテディ・ペンダーグラスとのデュエットを含めてマイケル・マッサーが書いたエレガントなバラードを歌い、ポップ・デュオのボーイ・ミーツ・ガール、またマドンナやシンディ・ローパーに曲を提供していた作家をソングライターとして起用するなど、どちらかといえばポップス系クリエイターとの繋がりが強かった。結果としてシングルは、R&Bチャートでもヒットしたが、全体的にはポップ・チャートで好成績を上げることになる。

    だが、当時のR&Bアーティストすべてがポップ路線に傾いていたわけではない。ジャネット・ジャクソンはジミー・ジャム&テリー・ルイスと組んで尖鋭的なR&Bにチャレンジしていたし、アニタ・ベイカーはR&Bのクロスオーバー化へのアンチとして黒人性を打ち出したクワイエット・ストームの流れで人気を博していた。もちろんホイットニーも、87年のアルバムでマンハッタンズやアイズレー・ブラザーズのスロウ・バラードを歌うなどしてR&Bフィールドとの繋がりを保っていたが、88年のSoul Train Music Awardで事件は起こる。アニタ・ベイカーとワイナンズがプレゼンターとなり、「最優秀ミュージック・ヴィデオ」のノミネート作が紹介された際、ジャネット・ジャクソン、マイケル・ジャクソンに続いてホイットニーのヴィデオが流れた途端、客席から歓声に混じってブーイングが起きたのだ。TV音楽番組「ソウル・トレイン」が主催する同アワードは、グラミー賞などとは違い“ブラック”であることに重点が置かれる。そこで彼女は黒人コミュニティからWhitneyにかけて「Whitey(白人気取り)だ」と非難された。翌89年にも同じことが起きている。

    折しも88~89年は、ストリート感のあるハネたビートを特長とするニュー・ジャック・スウィング (NIS)のブーム真っ只中。その創始者であるテディ・ライリーを含むガイの作品とともにNISを象徴したのが、後にホイットニーと結婚するボビー・ブラウンのアルバム「Don’t Be Cruel」(88年)だった。こうした事象を踏まえて、3枚目のアルバム「I’m Your Baby Tonight」(90年)では、R&B路線を強化すべくボビーの同作を手掛けたLAリードとベイビーフェイスをメイン・プロデューサーに起用。結果、今度は前2作とは反対にR&Bチャートの方で長く1位をキープすることになる。その後もベイビーフェイスは、映画「ため息つかせて」(95年)のサントラに収録されたバラード「Exhale (Shoop Shoop) 」などを制作。R&Bとポップスを跨いだ仕事が多いベイビーフェイスは、ホイットニーの良き理解者でもあっただろう。

    以降、ホイットニーの作品は最新のR&Bサウンドを意識して作られ、当代のプロデューサーやシンガーが積極的に起用された。むろんそれはメインストリームのポップ・シーンでR&Bやヒップホップの勢力が強まってきたことも大きい。生涯で8曲がR&Bチャート1位に輝いたホイットニーが最後に同チャートで1位を飾ったのは、フェイス・エヴァンスとケリー・プライスを迎えた「Heartbreak Hotel」 (98年)。ホイットニ一同様ゴスペルを基盤とする後輩の女性R&Bシンガーたちとの共演だった。今も存命していたなら、ジェニファー・ハドソンやジャズミン・サリヴァンあたりとの録音が実現していたかもしれない。

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