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  • すべてをあなたに (Saving All My Love For You) [1985]
    プロデュース:マイケル・マッサー

    デビュー曲「そよ風の贈りもの (You Give Good Love)」につづくセカンドシングルであり、はじめての全米ナンバーワンソング。この曲でホイットニー・ヒューストンの名前は世界中に轟いた。ポップミュージック史を代表する不倫ソングの古典でもある。クライヴ・デイヴィスによれば、デビューアルバム『そよ風の贈りもの (Whitney Houston)』の中で「ホイットニーらしさ」を理想的に体現するのは、この曲と「オール・アット・ワンス」「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」に尽きるという。ユダヤ系の人気作曲家マイケル・マッサーの手によるその3曲は、人種や階層を問わず広く浸透するという自信があったらしい。だがまず黒人コミュニティからの強い支持を得なければならないと考え、当時R&Bシーンで最もヒップな存在だったカシーフがプロデュースした「そよ風の贈りもの」をデビュー曲に配したそうだ。クライヴの慧眼ぶりが冴える差配といえよう。とはいえ本作でも描かれたように、それでもなお「黒さ(The Blackness)が欠けている」という黒人コミュニティからの批判にホイットニーは長年悩まされるのだが。

  • すてきなSomebody (I Wanna Dance With Somebody) [1987]
    プロデュース:ナラダ・マイケル・ウォルデン

    セカンドアルバム『ホイットニーII〜すてきなSomebody (Whitney)』の冒頭を飾ったシングルにして、通算4曲目の全米ナンバーワンソング。デビューアルバム収録の「恋は手さぐり (How Will I Know)」と同じく、作詞作曲はジョージ・メリルとシャノン・ルビカムだ。このコンビはポップスデュオ、ボーイ・ミーツ・ガール(Boy Meets Girl)としても知られ、当時は夫婦だった。プロデュースを手がけたのも「恋は手さぐり」同様、ナラダ・マイケル・ウォルデン。ウォルデンは80年代にアレサ・フランクリン等のプロデュースでクライヴそして彼のアリスタ・レコードに最大の貢献を果たしたヒットメーカー。『ホイットニーⅡ』ではじつに11曲中7曲をプロデュースした。本作のタイトルにも引用されたこの曲の原題は、正式にはその後に (Who Loves Me)という言葉が付加される。このタイトルはじつに暗示的だ。自分に愛情を寄せるパートナーを不器用に求めつづけたホイットニーの壮絶な最期を、いまのぼくたちは知っているから。

  • ハート・ソー・バッド(Why Does It Hurt So Bad) [1996]
    プロデュース:ベイビーフェイス

    1995年、ホイットニーが主演映画の2本目に選んだのは、アフリカンアメリカンの人気女性作家テリー・マクミランのベストセラー小説が原作の『ため息つかせて (Waiting To Exhale)』だった。名優フォレスト・ウィテカーの初監督作品。ベイビーフェイスが仕切り人気女性R&Bシンガーが結集したサントラも、R&Bファンの大きな注目を集めた。ホイットニーがベイビーフェイスと組むのは、90年のナンバーワンソング「アイム・ユア・ベイビー・トゥナイト」以来。サビ部分の歌詞が擬声語(“Shoop Shoop”)という異色の主題歌「ため息つかせて (Exhale)」(11曲目にして最後の全米ナンバーワンソング)のほか、親友のゴスペルシンガー、シーシー・ワイナンズとのデュエット「カウント・オン・ミー」、そしてこの曲の計3曲を歌った。当初サントラには関与しない意向を示していたホイットニーは、音楽担当がベイビーフェイスに決まったと知り参加することに。じつはこの曲はベイビーフェイスが映画の2年前にホイットニーのために作ったものだが、当時ホイットニーは「今はそんな(悲しい歌をうたう)気分ではない」とレコーディングを断っていたという。別離の後もつづく悲しみを切々と歌って胸を打つ。

  • イッツ・ノット・ライト・バット・イッツ・オーケイ (It’s Not Right, But It’s Okay) [1999]
    プロデュース:ロドニー・ジャーキンス

    ホイットニーは生前グラミー賞に通算25部門でノミネートされ、うち6回受賞している。余人をもって替えがたい彼女の音楽的功績を考えれば少なすぎるが。とまれ、最優秀女性R&Bボーカル部門を制したこの曲は、ホイットニーにとって最後のグラミー受賞曲となった。プロデュースを手がけたロドニー・ジャーキンス(通称ダークチャイルド)は、ホイットニーより14歳年少という早熟の天才。98年の特大ヒットであるブランディ&モニカ「ザ・ボーイ・イズ・マイン」をはじめ、ジェニファー・ロペス、ディスティニーズ・チャイルドなどフレッシュなアーティストのヒットを連発していた時期にあって、超大物ホイットニーとのコラボは話題性十分だった。事実、ダークチャイルド印の新しいビートとの相性は申し分なく、内容的にもセールス的にもホイットニー健在を十分にアピールするヒットとなった。ときにホイットニー35歳、ダークチャイルド21歳。このコンビでアルバムを丸一枚作れば、世紀末にかがやく傑作に仕上がったのではないか。ダークチャイルドは本作にもエグゼクティブ・ミュージック・プロデューサーとして関わっている。

  • アイム・エヴリ・ウーマン (I’m Every Woman) [1993]
    プロデュース:ナラダ・マイケル・ウォルデン、ロバート・クリヴィレス&デイヴィッド・コール(C+C ミュージック・ファクトリー)

    ホイットニー最高の女性のエンパワーメント・ソング。ぼくの知るかぎりにおいて、アレサ・フランクリンの「リスペクト」と並ぶR&B史上最も愛された女性エンパワーメント曲かもしれない。オリジナルは、おしどりソングライター夫婦として数々の歴史的名曲を残してきたアシュフォード&シンプソンが作り、チャカ・カーンが1978年に発表したもの。ホイットニーが1992年の初主演映画『ボディガード』のなかで披露したカバーが翌93年にシングルカットされると、たちまちオリジナルを凌ぐ大ヒットを記録した。かつてホイットニーは母シシーと共にチャカ・カーンのレコーディングにコーラス参加していたという「前史」を考えれば、この曲をめぐる精神のリレーは人間くさい幸せに満ちている。実際ホイットニーは曲終盤でチャカ・カーンの名前を嬉しそうに連呼しているし、MVにはチャカ・カーン本人も出演してこの曲の神格度を高めている。これもメインプロデューサーはウォルデンだが、当時ダンスミュージックの世界の頂点に立っていたC+Cミュージックファクトリーのふたりがビートを強化、ヒット性をさらに高めた。

  • 百万ドルの恋 (Million Dollar Bill) [2009]
    プロデュース:スウィズ・ビーツ&アリシア・キーズ

    ホイットニーにとって音楽業界の父親的存在のクライヴ・デイヴィスは、自ら設立したアリスタ・レコードを2000年に去り、新たにJレコードを立ち上げる。アリスタに残ったホイットニーとの共同作業は、それから10年近く途絶えることになる。そのあいだ彼女は公私において迷走したが、ふたりが正式に再会を遂げるのは2009年まで待たねばならない。Jレコードを大成功させて音楽業界内での地位をさらに高めたクライヴは、ホイットニーに近いところに戻り、満を持してカムバック・アルバムの制作に取り組んだ。それが『アイ・ルック・トゥ・ユー』。世界で250万枚を売り上げ、『ボディガード』以来17年ぶりのナンバーワンアルバムとなった。アルバムにはホイットニーを慕うクリエイターが多数集って佳曲を提供した。なかでも象徴的なのは、Jレコードのファーストレディ、アリシア・キーズと、彼女の夫であるヒップホップ界のトッププロデューサー、スウィズ・ビーツが共同制作したこの痛快な曲だろう。クライヴが世に送り出したふたりの歌姫がここに邂逅したのだから! ホイットニー、最後のきらめきだった。

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